碧骨堤及び堤防

 
* 指定番号 :

史蹟 第111号

* 所在地 :

金帝市 扶梁面 月昇里

* 時代 : 百済時代
* 指定日: 1959年 4月 9日
 
 
 
 
* 碧骨堤地
 

碧骨堤防は扶梁面の真中を南に横切っている。即ち、南の月昇里チョスン(注:三日月)村と、北の月村洞との境界を成す院坪川の浦橋まで、約2,500mに渡って伸びている。小白山脈から伸びて来た?嶺山脈の中峰である母岳山と九成山、象頭山を始めとする群小連峰から発源した豊富な水が、院坪川、斗月川、甘谷川、金溝川、シンボッ川、オジュ川の河川をここに全て集めて、貯蔵させ、金萬平野を始めとして井邑市、扶安郡の一部など、3個の市郡の灌漑水利に 利用した。

 
* 碧骨堤の築造
 

碧骨堤は、我が国で築堤された大規模の貯水池中最も古いものと知られている。その築堤時期は、<<三国史記>>と三国遺事に各々新羅訖解王21年(西暦 330)と、20年(西暦 329)に記録されている。この時期の金堤地方は百済の領域であり、百済と新羅は互いに対立していたので、上の2つの記事は錯誤により百済の事実が新羅の歴史を間違って記録したものと推定される。

 
* 碧骨堤の規模
 

碧骨堤は、その規模が近代社会において東方で一番ということができるものだった。この碧骨堤の規模とその機能は、<<東国與地勝覧>>に載っている'碧骨堤重修碑文'に詳しく言及されている。この他にも東北に8km離れた黄山の麓に江汀村があるが、碧骨祭物が泊まって行ったして付いた名前だとし、浦橋から金堤市剣山洞に塩船が出入したとしてソグムサン(注:塩の山)村と、塩船が転覆した所だとしてソグムベミ(注:塩の水田)がある。村の名前には、それなりの由来があり、理由があるのである。上に列挙した全ての村と地名が碧骨堤が、満水位に達した時湖中の村々という点を考慮すれば、碧骨堤の周囲は大体推量できる。故に碧骨堤は、その規模が東方で一番と言えるのである。

 
* 補修
 

碧骨堤は、金堤平野の水田耕作に重要な役割をしていたので、この堤防が作られた後、何度も修築工事が行われた。ところが、この堤防の規模が非常に大きかったので、この工事は容易ではなかったようである。この時の巫女の話した内容が何だったのかわからないが、碧骨堤はあっけなく廃棄された後、高麗時代末まで放置されていた。このような雰囲気の中で、まず太宗8年9月に全羅道兵馬節度使である姜思徳が、便宜収税として報告した3つの建議案中、最後の条項に碧骨堤の修築を述べた。即ち、碧骨堤修築の必要性を主張し、太宗はこれに対して好意的な反応を見せた。こうして、その年9月20日から10月13日まで、20余日間碧骨堤修築工事をし、約300年ぶりに碧骨堤が復旧された。ところが久しぶりに復旧された碧骨堤が、5年後の世宗2年(1420)にひどい暴雨により、決壊してしまった。それ以後、碧骨堤は、その補修と廃棄を主張する論議が繰返される中で、次第に放置され、その広い堤地が田畑に変わって行った。

 
* 碧骨堤開発
 

開発の必要性

1. 我が国最高最大の農耕水利文化遺跡の発掘保存
2. 収集保存している水利民族遺物の整備管理と毀損防止
3. 各種水利施設発達史の生きた教育場化などである。

 
 
 
 
 

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